2階・ともの広場 堤年弘
今年も暖冬だったとは言え、底冷えのする真冬の路上生活に耐えた人達が、今は、暖房の取り払われた「ともの広場」でくつろいでいます。
私は週2回しかやって来ないのですから、彼らの毎目の厳しい生活は垣間見る位です。それでも数年来、同じ曜日に来ていたのが、今年から違っていたりすると、どうしたのかと逆に、関心を持って尋ねてくれる人がいます。こちらはボランティアという気楽な立場で来ているのですが、少しは存在を認めてくれているのでしょう。
最近Tさんがひょっこり顔を出しました。彼は閉館後、掃除を手伝ってくれていました。55才になり「ふるさと」のすすめで『特別清掃』に登録することができ、月に2,3度、1回に5700円を得られ喜んだのもつかの間、悪い伸間に付け込まれ、気の弱い彼は収入の殆どを取られていたのでした。その後、その仲間も現れなくなり、彼はやっと安堵し、「今月は『特掃』に何回行って助かっている」などの報告をよくしてくれていました。NPO釜ヶ崎が行う『特掃』の集団健康診断で、Tさんは結核とわかり、昨年11月から療養所に入って治療を続け、7ヶ月ぶりにやっと退院し尋ねてきてくれたのです。路上生活に戻れば、再発の心配があるからとNP0の紹介で寮に入居することができるようになり、まずは一安心です。
結核に罹る割合は、日本で大阪市が第一'位、その中でもここ「釜ヶ崎」がダントヅです。こんなことはずっと以前からわかっています。行政も医療関係者もここに住む人達に、予防や検診への参加などを絶えず呼びかけてはいます。それでも一向に減る気配がありません。野宿を余儀なくされている人にとって、今目をどう生きるかが閥題で、病気のことにまでなかなか思いがいたりません。戦後、結核が治るようになったのは、抗生物質の開発が進み、それがよく効いたからだとされています。それに加えてく結核患者が減っていったのは生活状態が向上したからです。ストレプトマイシンなどの有効な薬がない前の結核治療は何だったのでしょうか。それは、「大気、安静、栄養」なのです。野宿生活者はこの基本的な治療すら受けられないのです。これからどう解決していくのか、大国日本が性急に取り組むべき問題だと思います。
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